真宗大谷派 亀井山 萬徳寺は、江州坂本西教寺(現在は天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺)の住職であった。
起覺が三河の地に高宮山万弘寺を天台宗の寺院として宝治2年創立(1248)創立したことを始まりとしています。その後、2代の教圓のとき京都へ戻られる親鸞聖人のお弟子となり、「十字名号」と「安静の御影」を拝受することとなりました。
また6代了西のとき、蓮如上人のお弟子となり六字名号を賜りました。
この明應の時代に、万弘寺を萬徳寺と改めて、浄土真宗の寺院として歩みを始めたと思われます。
その後、江戸時代に三河一向一揆が起こったことによって、三河の真宗寺院住職はこの地を追放されます。
萬徳寺は、大阪の伊丹に身を寄せますが、許しを受けて戻り、再び三河の地で門徒教化を行うことになります。
江戸時代末期から明治時代初頭に22代住職の妙音院了祥は、真宗教学の学者として東本願寺の高倉学寮にてその研究をしています。
『歎異抄』の研究においては、その著者が唯円との指摘は、今日の定説となっています。
また、二河白道絵図を真宗の教学に基づいて三幅の絵図として作成するなど、今日の真宗教学に少なからず影響を与えています。
昭和20年には、太平洋戦争の岡崎空襲により、本堂などを焼失しています。失意の底から昭和47年に、お檀家の方々の願いを受けて現在の本堂が鉄筋で建てられました。
創立以来770年の歴史を重ねる中で、時代の流れに翻弄されることも多々ありました。しかしながら現在、岡崎市明大寺の地において、有縁の方々に真宗の教えをお伝えし、お檀家の方々によって堂宇は護られ教えと共に萬徳寺は歴史を重ねています。
宝治2年(1248) | 高宮山万弘寺は江州坂本西教寺住職 起覺 創立 |
---|---|
2代 教圓 | 親鸞聖人の弟子となり、十字名号と安静の御影を拝受する |
6代 了西 | 蓮如上人の弟子となり、六字名号を賜る。また万弘寺を満徳寺と改める。(明應) |
22代 了祥師 | 江戸時代末期に、教義と歴史の両面から浄土真宗の教学を広く伝えることに勤めた。 『歎異抄』について、当時著者を如信または覚如とする通説に対して、河田の唯円と提起した。 これによって今日『歎異抄』の著者は唯円となっている。 また『歎異抄聞記』は、現在の真宗教学に大きな影響を与えている。 宝物の「二河白道絵図」は、了祥師が監修して描かせた。 真宗教学を明確にしているとして注目をされている。 |
十字名号
正信偈
正信偈
萬徳寺は、鎌倉中期にその創建がされ、今日まで約770年の歴史を重ねてまいりました。
時代の大きな変化に耐えながら、檀信徒の皆さんのお力により今日を迎えております。
近代において、真宗の教えを明らかに広くお伝えしようとした了祥師が江戸時代末期に登場します。
その願いを受けるように、太平洋戦争後に見失われた人間性を取り戻そうと、27代秀英が社会的事業として明徳保育園を創立しました。
萬徳寺は、名鉄東岡崎駅に近く交通の利便の良さを有しております。
このことから、より一層多くの方とのご縁を結び、「生まれた意義と、生きる喜び」を共に学び、お伝えをしてまいります。
どうぞお気軽にお越しください。
亀井山 萬徳寺は愛知県岡崎市 名鉄東岡崎駅のすぐ近くにある都市型のお寺です。
地域の皆様を結びつける、お気軽に来れるお寺を目指しています!!
「あそび」は、子どもの仕事です。
"それがなぜ仕事なの" と思われるかもしれません。
この仕事は、子ども自身が人間として成長しようとするためのものです。
発見をしたり。想像をしたり。考えたり。作り上げたり。協力したり。
これから大きな世界に旅立つには、「あそび」はとても大切なことなのです。
宗教法人萬徳寺が寺院の使命として社会に開かれた場であることを願い明徳保育園を開設しました。
平成21年6月に、社会福祉法人萬徳会が願いを受け継ぎ運営をしています。
本堂が二階にあるためエレベーターを設置しております。
また車いすの方もご利用しやすいようにバリアフリーな施設を心がけております。